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「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」
「なに?」
と、彼は思ひ出したやうに房一の顔をのぞきこんだ。それは、いつか道平を診察しての帰り路で、「あれだね、君は見かけによらない親思ひなんだね!」と叫んだ時とそつくりな感嘆をまじへた親しさといつた色が閃いていた。
「ね、大石さん。今夜一つ私のところで慰労宴をやらうといふんですがね。あなたもぜひどうですか。この三人だけでね」
二人とも巻ゲートルに地下足袋姿であつた。そのうちの一人は印袢纏しるしばんてんを着ていた。房一の見たこともない連中だつた。だが、先方ではこの釣竿をかついだ猪首のやうな男が目ざすお医者だと気づいたのだらう、印袢纏の背の高い男は黄く汚れた半シャツの男に向つて、こちらを見ながら何か云つていた。
一方、正文はこの大人と子供と混まざり合つたやうな、身体だけは大振りな、女にかけては強したゝかな息子を前にして途方に暮れた。彼はあれほど自分の思ひ通りに仕立てようとしたにかゝはらず、思ひもよらぬ息子として現れた練吉に対し、今遅蒔おそまきながらその心底に立つて理解してやらうと試みていた。だが、何といふ支離支滅な、性懲しようこりもないふしだらだつたらう、どういふ風に彼の云ひ分に耳を傾け、どんな風に彼を認めてやればいゝのだらう――そこには何一つ彼の型にはまつた見方にあてはまるものはなかつた。ぐらぐらした、手に負へない、いたづらに父親である彼の胸を暗くし、息をつかせない思ひをさせる、愚かな、口の達者な、だが何となく見捨て切れないもののある、それは彼自身の息子にちがひないが、あれほど入念に手塩にかけたつもりでいながら、彼の手などは一つと云へども加つてはいないといふ気のする、得体のしれないものだつた。
その粗暴な外見とは反対に、徳次はさういふ血生臭ちなまぐさいことが嫌ひだつた。そして、人並外れた敏感さを示すのであつた。今もそれで、彼はいかにも心外げな様子を、その無意識な仕草の中に現していた。
恐しく暗い。目の前に小河の水面がぼんやり光つて流れていた。橋を渡ると、そこは営林区署出張所の材木置場で、その向ふに稍小高い山を背負つて出張所の建物が立つていた。そこだけに、高張提灯がいくつか並び、傍で小さい焚火が燃え、疎まばらな人影が立つて照し出されていた。他には火らしいものはどこにも見えない。鐘はいつのまにか止んでいた。どつちを向いてもたゞ大きな暗さが黙り返つて立つているだけだつた。しかるに、房一の入りこんだ材木置場から橋にかけたあたりにはとまどひした無数の人が誰とも判らないまゝにつめかけ、空を見上げ、がやがや云ひ、押し合ひ、駆けまはりしていた。彼等は夢中になつて走つて来たのと、暗らがりとどこに火事があるのだか判らないためとで一様にあてどのない興奮にまきこまれ、どうしていゝかもわからず、たゞ無暗とつめかけ、そこらぢうでバケツの音がし、躓つまづいたり転んだりしていた。製材された板片の井桁いげたに積み上げられたものが、人に押されてばりばりとくづれ落ちる音がした。
「それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君」
「眼が潰つぶれちまふ――ねえ、先生」
その当時は差したることでもないように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打身のようになって、暑さ寒さに崇たたられては困るというので、支配頭の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本といっても小身しょうしんであるから、伊助という仲間ちゅうげんひとりを連れて出た。
それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついていたのである。もう慣れつこになつている。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
「ふむ。悧巧者だな、お前は」