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    「梨地から水神淵へ降りる路ができたからね、そこへ出れば、帰りはずつと楽だ」

    と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。

    「ほう、さうか。毎年あるのかね。そいぢや、これから度々見られるわけだな」

    と、その稍落ちつきのない女らしい黒瞳くろめがちな眼を道平に向けた。

    徳次は人の好い、いかにもさう信じこんだやうな眼で二人を眺めた。

    今日幾人かと会つて口を利いただけで、彼は自分が今はじめて河原町での医師になつているのを感じた。それはまだ形ができてはいなかつた。だが、彼の足は今河原町の土を踏み、彼等が房一を認めると否とにかゝはらず、否応なくその相手になつていなければならなかつた。この短時間のうちに得た小さな発見は、何故か房一の胸に或る落着きを与へた。

    「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」

    「三人どころぢやない、五人も十人もある」

    「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者もんが度々御厄介になつとる先生ですかな」

    で、この間に、いくらかそゝつかしいところのある、換言すれば、済んだことにはあまり気をとられない現実的な気質の房一は、たつた三十分前に盛子から聞いたときのあの驚きを忘れていた。一先づ用は片づいた。今日は別に往診もなかつた。で、かういふときの癖で、彼のあのはまりのいゝ廻転椅子に身体をうづめ、ぼんやりとした考へに落ちたのである。

    「おーい、火事はどこい行つたあ」こんな風に、口々に喚いていた。

    小谷は仰山ぎやうさんな表情になつた。

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